旧菊池邸は「銀河鉄道の夜」のカムパネルラの家のモデルであったかもしれません。カムパネルラやそのお父さんの描写には菊池捍とその子息たち (その一人は賢治の弟宮澤清六氏の友人でした)と関わるようなことが沢山あるからです。
カムパネルラという名前は「太陽の都」という古典的名著を書いた人の名から取ったといわれていますが、その理想郷太陽の都はタブロバーナ島にあり、そこは今のスマトラ島だというのです。そのスマトラ島に捍氏は仕事で住んでいたことがありました。当時の菊池家はカムパネルラの家と同じく犬を飼い、書斎を持ち、百科事典を揃えていた、など共通点が多く、さらに捍氏は絵が上手で特に水車の絵を巧みに描き(このことは初期形にあります)時間に厳格で、いつも時計をみて時刻を確かめていた、など「銀河鉄道の夜」のカムパネルラやその父親の描写と偶然の一致にしては話が合いすぎます。
菊池 捍(まもる) 1870(明治3年)-1944(昭和19年) |
佐藤 昌介 1856-1939(安政3-昭和14) |
旧菊池捍邸書斎、当時の花巻で和洋折衷の書斎を持つ家は珍しかったのです。 |
賢治が教養の高い知識人の家庭を描こうとしたとき、身近な菊池一家を主なモデルしたのではないでしょうか。捍氏は花巻農学校の昇格にも協力し、農学校の教師たちとも交流がありました。カムパネルラの水死のような悲しい出来事は起こりませんでしたが妻淑子(佐藤昌介の妹)は病気で早逝しました。捍(まもる)氏は、花巻の人からキクカン(菊捍)さんと呼ばれていました。菊池カンパネルラだったのでしょうか?