ようこそ、イーハトヴ・ハーナムキヤへ
花巻の街の中心部で賢治は生まれ、育ち、学び、働き、そして亡くなりました。
その間、多くの人々が影響を賢治に与え、賢治と互いに交流しあい、そして賢治から影響を受けました。
それらの人々の中から、代表的な人物を選び、彼らと賢治との心の響きあいを伝える場所をマップにしました。
☆ 地図中に示される各人物についての解説は、このページ下部の「人物紹介」(↓)をご参照ください。
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周辺地域マップについて
賢治が生まれ子供時代を過ごし、盛岡中学を卒業して家業を手伝った時、農学校教師時代、農民として羅須地人協会を開いていた時代、さらに闘病生活や死を迎える時期など作品を残すための多くの時間を過ごした花巻の街。
花巻の街をとり囲む地域にも、賢治の心と響きあった人々を偲ぶ場所があります。この面のマップにはそれらを図示しました。なお、新市域である石鳥谷、大迫、東和の各地区や隣接する北上市域は本図には含まれていません。
賢治と花巻ゆかりの人物をご紹介します。
賢治が影響を受けた花巻にゆかりのある人物や、賢治から影響を受けた人物の一部です。明治期以降に活躍し、故人となられた方々を掲げました。原則として賢治の親族および同僚、同級生、教え子は取り上げませんが、関登久也、阿部孝、冨手一は例外として図示しました。これ以外にもたくさんいらっしゃると思います。みんなでもっと探してみましょう。
賢治が影響を受けた人物
賢治が影響を与えた人物
双方が影響しあった人物
- 農産加工の専門家として賢治に影響を与えた。当時としては珍しい洋風住宅を建て、童話『黒ぶだう』の舞台となった。童話『銀河鉄道の夜』のカムパネルラの人物や家庭のモデルである可能性も高い。佐藤昌介の義弟。
- 札幌農学校第一期生。賢治引率の花巻農学校修学旅行生一行を大学に迎え、同郷の生徒らに訓辞を行なったことは、賢治の復命書に詳しい。昌介が男爵位を受けるという噂が詩『実験室小景』に書かれている。
- 賢治に博物学者として種々の助言をし、イギリス海岸へ早坂助教授を招いた人でもある。特に貝類の研究で知られた。童話『猫の事務所』の中のトバスキー、ゲンゾスキーという猫は、彼の名のもじりである。
- 賢治の指導教官。賢治は卒業後も研究生として、同教授が郡役所から依頼された胆沢郡の土壌調査を行った。童話『グスコーブドリの伝記』は、師の教えを反映し、詩には師の素顔の一端を描いたものもある。
- 元教師、内村鑑三の高弟のクリスチャンで求廉堂を開く。賢治の父と親しく、賢治とは音楽や園芸を通じて交流。宗教者同士として賢治は敬意を持ち、様々な形で宗次郎の影響が作品に投影している。
- 賢治が小学五年生の時の担任。熱心なキリスト教徒である。また、子息の謹二郎は農学校で教師賢治に学んだ。また、三年次担任の八木英三は多くの童話を教室で読み、賢治の心に文学への関心を育てた。
- 佐藤竣介として幼年期を花巻、少年期を盛岡で過ごした彼は、小学校の先輩賢治を敬愛。1936年、禎子夫人と結婚し松本姓を名乗り、雑誌『雑記帳』を創刊。その巻頭に童話『朝に関する童話的構図』を載せた。
- 音楽を通じ深い交流があった。穴のあいたチェロは、もともと嘉藤治のものであり、童話『セロひきのゴーシュ』のモデルは彼である。賢治の媒酌で結婚するなど、家族ぐるみで親交があった。
- 音楽を通じ深い交流があった。穴のあいたチェロは、もともと嘉藤治のものであり、童話『セロひきのゴーシュ』のモデルは彼である。賢治の媒酌で結婚するなど、家族ぐるみで親交があった。
- 中国人を父に、日本人を母に重慶で生まれ、日本詩壇に登場し、豊沢町に賢治の病床を訪れた。帰国後、国民党軍将校。戦後、長い投獄生活を送る。賢治を評価した最初の外国人文学者である(王敏による)。
- 賢治とは、「座敷わらし」などの民話を通じた交流があり、さらにエスペラント語も二人を結びつけた。喜善の著書に賢治からの聞き書きが散見されるし、賢治も喜善の著作や談話に強い関心を示していたといわれる。
- 賢治の主治医でもあった院長は、病院中庭の花壇設計を賢治に依頼する。その造園をめぐる賢治と院長との個性のぶつかる情景が短編『花壇工作』や詩『病院の花壇』にうかがわれる。賢治に関する著書も多い。
- 賢治の世界的な広い視野は、稲造からの影響といえる。特にアメリカ大陸への移住やエスペラント語等について影響大。童話『虔十公園林』の中に登場する米国帰りの博士のモデルの一人かもしれない。
- 賢治の遠縁にあたり、リンゴの神様と呼ばれた研究者。彼が日本にもたらしたゴールデンデリシャスは、童話『銀河鉄道の夜』の中に登場し、乗客の日本人が初めて目にする金色のリンゴとして描かれている。
- 花巻温泉の花壇の造園や植栽の指導を賢治から受けた。賢治の設計による日時計花壇は、同温泉バラ園に現存。稗貫農学校第一回卒業生でもある。賢治は菊の品評会の審査員を依頼され、俳句を詠じた。
- 賢治の年少の友人で、直木賞作家。賢治に関する多くの著書がある。関登久也とともに、賢治の生涯で最も身近で親交のあった文学者といえよう。羅須地人協会のころの賢治に関する文が興味深い。 筆名 森荘已池。
- 賢治は中学時代、大等編著『漢和對照妙法蓮華経』に感動したという。賢治は大等の1911年の大沢温泉での夏季講習会の講話や1913年の願教寺での法話を聞き、大谷探検隊員としての活躍にも憧れた。
- 賢治の父が大沢温泉での夏季講習会に招いた折に、賢治は暁烏や多田鼎の待童を務め、花を捧げた経験を童話『四又の百合』に取り入れた。短編『復活の前』の中で賢治は「暁烏さん」の法話の一節を引用している。
- 賢治が発見したクルミ化石の採集にイギリス海岸を訪れ、のち「地質学雑誌」に論文として発表した。童話『銀河鉄道の夜』のプリオシン海岸で、ボス(原牛)化石の発掘を指揮する人物は、同氏がモデル。
- 賢治は光太郎の詩や短歌を高く評価しており、東京のアトリエを訪ねたこともある。光太郎は賢治没後、その作品を賛美し世に広めた。戦中、宮沢家に疎開したが空襲で被災、花巻西郊の山口山の山荘に移り住んだ。
- 賢治の父政次郎の従兄に当たるが、年令は賢治の三才下である。本名岩田徳也。賢治に文学と信仰の両面で兄事し、同じく日蓮信仰に帰依し、国柱会に入る。賢治没後は、賢治に関わる多数の出版物を著した。
- 賢治の親友で、神主の息子、一緒に登山したり、作品の批評を求められたり、親交が続いた。花巻農学校に近い孝の家の付近は、西公園とも呼ばれる一帯に含まれ、賢治が好んで散策した地域でもある。
- 1940年10月封切りの日活映画「風の又三郎」の監督。この名作が、それまで殆ど知られていなかった賢治の名を全国に高めた。豊沢川のさいかち渕などで撮影を行なった。本名鹿児島 武彦。
- 少年時代から賢治に憧れ、釜石の療養所に勤めていたころ、下根子の花巻療養所を訪れ、賢治の世界に浸たり、エッセイ『風景はなみだにゆすれ』を書いた。ほかに戯曲『イーハトーボの劇列車』など。
このマップ及び人物紹介は、「賢治・星めぐりの街づくり推進協議会」が、ハーナムキヤ景観研究所•米地文夫(岩手県立大学名誉教授)先生の資料と指導により、宮沢賢治と関わりの深い人々をとりあげ、作品の舞台となった花巻市中心部のゆかりの場所を紹介するものです。「賢治・星めぐりの街づくり推進協議会」は、花巻市街地に残された賢治作品の題材やモデルなどを調査・分析しながら一般に紹介し、その活用を目指す団体です。(印刷物のリーフレットもございます。)
このホームページおよびリーフレットは、財団法人いわて産業振興センターの「平成24年度いわて希望ファンド地域活性化支援事業助成金」(中心市街地活性化支援事業)の助成金を活用して制作しました。
制作年月日 平成25年4月